教育の職人のぶさんの、国語教育とカウンセリング(公認心理師)、グループワークとキャリア教育、長年鍛えた職人技をお目にかけます。
アクティブラーニングの実践家の第一人者といえば、元越谷高校理科教諭の小林昭文氏である。氏の授業は、最初の15分で、プリントを配布しパワーポイントを使って学習内容を説明する。次の35分で、問題と解答と解説プリントを配布して自由に歩き回って聞いたり教えたりして問題演習をする。最後の15分で、確認をテスト(演習問題と同じ問題)し、相互採点し、振り返りシートを書く。同じパターンで1年間継続する。
僕も2回ほど小林先生の授業を体験したが、物理の苦手な僕にとっては、正直あまり愉快な時間ではなかった。なぜ、この授業を生徒が絶賛するのか。そこには、きっと小林先生ならではのスパイスがあるはずだと思う。
僕も2回ほど小林先生の授業を体験したが、物理の苦手な僕にとっては、正直あまり愉快な時間ではなかった。なぜ、この授業を生徒が絶賛するのか。そこには、きっと小林先生ならではのスパイスがあるはずだと思う。
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巷間に広がるアクティブラーニング、その定義は?
様々言われているが、文部科学省が(あるいは現在の下村博文文部科学大臣が)公式に定義したものはない。文部科学省のホームページを探して見つかるのは、
平成26年11月20日の26文科初第852号、文部科学大臣下村博文が中央教育審議会に諮問した
「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について」しかない。
その中には、
「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習(いわゆる「アクティブ・ラーニング」)」
とある。
アクティブラーニングが必要な理由については、
「我が国の子供たちについては,判断の根拠や理由を示しながら自分の考えを述べることについて課題が指摘されることや,自己肯定感や学習意欲,社会参画の意識等が国際的に見て低いことなど,子供の自信を育み能力を引き出すことは必ずしも十分にできておらず,教育基本法の理念が十分に実現しているとは言い難い状況です。また,成熟社会において新たな価値を創造していくためには,一人一人が互いの異なる背景を尊重し,それぞれが多様な経験を重ねながら,様々な得意分野の能力を伸ばしていくことが,これまで以上に強く求められます。」
とある。
アクティブラーニングによって、
「「何を教えるか」という知識の質や量の改善はもちろんのこと,「どのように学ぶか」という,学びの質や深まりを重視する」
力を育成しようとするのである。
ただ、これは文部科学省という一行政機関の長が、中央教育審議会という一諮問機関にお願いしただけの文章である。中央教育審議会からの回答はまだで、文部科学省からの正式な発表もまだなのである。いわば、アクティブラーニングが一人歩きしているのである。
とはいえ、方向性としては間違ってはいないので、真摯に取り組まねばならない。
が、アクティブラーニングって、いったい何?、どうすればいいの?、どこまでやればいいの?
と問うとやはり「?」である。
様々言われているが、文部科学省が(あるいは現在の下村博文文部科学大臣が)公式に定義したものはない。文部科学省のホームページを探して見つかるのは、
平成26年11月20日の26文科初第852号、文部科学大臣下村博文が中央教育審議会に諮問した
「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について」しかない。
その中には、
「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習(いわゆる「アクティブ・ラーニング」)」
とある。
アクティブラーニングが必要な理由については、
「我が国の子供たちについては,判断の根拠や理由を示しながら自分の考えを述べることについて課題が指摘されることや,自己肯定感や学習意欲,社会参画の意識等が国際的に見て低いことなど,子供の自信を育み能力を引き出すことは必ずしも十分にできておらず,教育基本法の理念が十分に実現しているとは言い難い状況です。また,成熟社会において新たな価値を創造していくためには,一人一人が互いの異なる背景を尊重し,それぞれが多様な経験を重ねながら,様々な得意分野の能力を伸ばしていくことが,これまで以上に強く求められます。」
とある。
アクティブラーニングによって、
「「何を教えるか」という知識の質や量の改善はもちろんのこと,「どのように学ぶか」という,学びの質や深まりを重視する」
力を育成しようとするのである。
ただ、これは文部科学省という一行政機関の長が、中央教育審議会という一諮問機関にお願いしただけの文章である。中央教育審議会からの回答はまだで、文部科学省からの正式な発表もまだなのである。いわば、アクティブラーニングが一人歩きしているのである。
とはいえ、方向性としては間違ってはいないので、真摯に取り組まねばならない。
が、アクティブラーニングって、いったい何?、どうすればいいの?、どこまでやればいいの?
と問うとやはり「?」である。
杉江修治先生の『協同学習入門』から、戦後日本の集団学習と個別学習の往復を見てみる。
戦後まもなく、米国対日教育使節団の指導の下、小集団を積極的に活用する「分団学習」の授業スタイルが一般化した。集団ごとに与えられた課題を解決し、全体に発表して共有していくという指導法である。
しかし、確固たる理論がなく、1950年頃、基礎学力の低下が指摘され急激に収束していく。
1950年代半ば、一斉講義の後、6人ずつの集団に分かれて6分間話し合いをする「バズ学習」が現れる。人間関係は学習を促進する基盤であるという理論の下、人との相互作用を通して習得したことは生きる力に結びついていくと考える。
しかし、1980年代に入ると、個別学習に関心が移る。個に応じた学びが尊重され、集団学習は下火になる。
そして今、三たび、アクティブラーニングの名の下に、集団学習が見直される。今回は、文部大臣の肝入りである。
戦後まもなく、米国対日教育使節団の指導の下、小集団を積極的に活用する「分団学習」の授業スタイルが一般化した。集団ごとに与えられた課題を解決し、全体に発表して共有していくという指導法である。
しかし、確固たる理論がなく、1950年頃、基礎学力の低下が指摘され急激に収束していく。
1950年代半ば、一斉講義の後、6人ずつの集団に分かれて6分間話し合いをする「バズ学習」が現れる。人間関係は学習を促進する基盤であるという理論の下、人との相互作用を通して習得したことは生きる力に結びついていくと考える。
しかし、1980年代に入ると、個別学習に関心が移る。個に応じた学びが尊重され、集団学習は下火になる。
そして今、三たび、アクティブラーニングの名の下に、集団学習が見直される。今回は、文部大臣の肝入りである。
今回も、杉江修治先生の『協同学習入門』から。
キョウドウとキョウソウ、カタカナで書けば似ている。
しかし漢字で書けば、競争と協同、明らかに違う、というより正反対のものである。
競争とは、一人が目標に達すればそこでおしまい。他のメンバーは目標にたどり着くことができない。協同とは、メンバー全員が目標を達成することを目指す。
競争に積極的に参加する人は、勝てる見込みのある人である。最初から勝てない勝負には頑張ろうとする意欲が沸いてこない。一生懸命やって負けるのはかっこ悪い。それならいっそ、最初から努力しないほうが傷つかなくてすむ。傷つくことが最大の不幸であり、傷つけることは最大の悪であると信じ込んでいる現代人なら、まして子どもならそう考える方が自然だ。競争というものは、勝者は一人で、他の者はすべて敗者になるのだから、多くの人か努力することを忌避するのは当然だ。
ならば、勝てないから競争をやめて協同する、というのも違う。未熟な者同志が助け合うというソフトな協同もあるし、ライバル同士が鎬を削って鍛えあうという協同もある。大切なことは、共に成長することであって、協同するとか競争するとかいうのは、手段であって目標ではない。
キョウドウとキョウソウ、カタカナで書けば似ている。
しかし漢字で書けば、競争と協同、明らかに違う、というより正反対のものである。
競争とは、一人が目標に達すればそこでおしまい。他のメンバーは目標にたどり着くことができない。協同とは、メンバー全員が目標を達成することを目指す。
競争に積極的に参加する人は、勝てる見込みのある人である。最初から勝てない勝負には頑張ろうとする意欲が沸いてこない。一生懸命やって負けるのはかっこ悪い。それならいっそ、最初から努力しないほうが傷つかなくてすむ。傷つくことが最大の不幸であり、傷つけることは最大の悪であると信じ込んでいる現代人なら、まして子どもならそう考える方が自然だ。競争というものは、勝者は一人で、他の者はすべて敗者になるのだから、多くの人か努力することを忌避するのは当然だ。
ならば、勝てないから競争をやめて協同する、というのも違う。未熟な者同志が助け合うというソフトな協同もあるし、ライバル同士が鎬を削って鍛えあうという協同もある。大切なことは、共に成長することであって、協同するとか競争するとかいうのは、手段であって目標ではない。
杉江修治先生の『協同学習入門』を読みながらのコメントです。
バス(Bass,B.M.1962)によると、
グループワークによって形成される集団には2種類ある。
1つは「人間関係志向集団」、もう一つは「課題解決志向集団」である。
前者は、仲良し関係で結ばれることを目標とした集団である。後者は、課題をよりよく達成することを目的とした集団である。
学校現場で言えば、前者が学級活動で目指す集団、後者が授業で目指す集団といえる。
仲良し集団を維持するためには、厳しい鍛え会いという雰囲気は回避されます。
仲良し関係が出来上がれば、課題解決行動が促進されるわけでもない。
たしかに、集団を扱い、集団として活動するという点では共通している。
しかし、その差異をしっかり踏まえておかなければ、どっちつかずの中途半端な活動しかできない。
バス(Bass,B.M.1962)によると、
グループワークによって形成される集団には2種類ある。
1つは「人間関係志向集団」、もう一つは「課題解決志向集団」である。
前者は、仲良し関係で結ばれることを目標とした集団である。後者は、課題をよりよく達成することを目的とした集団である。
学校現場で言えば、前者が学級活動で目指す集団、後者が授業で目指す集団といえる。
仲良し集団を維持するためには、厳しい鍛え会いという雰囲気は回避されます。
仲良し関係が出来上がれば、課題解決行動が促進されるわけでもない。
たしかに、集団を扱い、集団として活動するという点では共通している。
しかし、その差異をしっかり踏まえておかなければ、どっちつかずの中途半端な活動しかできない。