教育の職人のぶさんの、国語教育とカウンセリング(公認心理師)、グループワークとキャリア教育、長年鍛えた職人技をお目にかけます。
教育カウンセラー協会の研修でエンカウンターにメンバーとして参加した。20人程度のこじんまりした会だが、東京から岡田先生に来ていただいて1日半の贅沢な研修だ。
2時間程度のエンカウンターの最後のプログラムはリフレーミングだった。4人組でそれぞれ自分の性格について書き、それをメンバーからリフレイミングしてもらうというエクササイズだ。僕が最後になったのだが、一生懸命リフレイミングしてもらった言葉がなかなかすとんと胸に落ちず、違和感を訴え続けていく内に時間が過ぎ、他のグループは終わっている。それは承知しているのだが、ここはワガママを言って納得できまるでOKを出さなかった。リーダーはよく待ってくれた。ようやく納得できて了解した。リーダーと、メンバーに甘えた心地よい時間であった。日頃、こんなに深く自分について考えることはない、ましてや考えてもらう機会などない。折角の機会、甘えさせてもらったし、それを受容してくれたリーダーやメンバーに感謝したい。
2時間程度のエンカウンターの最後のプログラムはリフレーミングだった。4人組でそれぞれ自分の性格について書き、それをメンバーからリフレイミングしてもらうというエクササイズだ。僕が最後になったのだが、一生懸命リフレイミングしてもらった言葉がなかなかすとんと胸に落ちず、違和感を訴え続けていく内に時間が過ぎ、他のグループは終わっている。それは承知しているのだが、ここはワガママを言って納得できまるでOKを出さなかった。リーダーはよく待ってくれた。ようやく納得できて了解した。リーダーと、メンバーに甘えた心地よい時間であった。日頃、こんなに深く自分について考えることはない、ましてや考えてもらう機会などない。折角の機会、甘えさせてもらったし、それを受容してくれたリーダーやメンバーに感謝したい。
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大学院の生徒理解の授業で、23年前のクラスの様子を発表した。かなり前に発表した原稿が残っていたので、それを加筆して発表した。加筆したり、発表したり、そしてもう一度思い返してみたりすると、一つ一つのことが鮮明に蘇ってくる。それは、一生懸命取り組んでいたからだろう。留年生が2人いたり、3人が退学したり、大学進学者0という、だるくてやかましいクラスだったが、一人一人を見ていくと、彼ら彼女らなりに一生懸命やっていたのがよく分かる。文章にまとめてしまえば、ハッピーエンドのように思えるが、実際はそう甘い者ではない。退学したり、思う進路に進めなかったり、進めてもその後トラブルがあったり、人さまざまな人生を歩んでいるのだろう。彼らも40歳を過ぎている。音信のある子はいない。どうしているのだろう。
丹波で一人暮らししている82歳の叔父が入院したという知らせを受けて入院の手続きに言ってきた。叔父は妻に先立たれ、子どももいない。認知症が酷くなり、ヘルパーによる一人暮らしでは限界になって、月曜日から施設に入所すると言う知らせが昨日あったばかりだった。2年前に従兄弟と2人でさまざまな役所の手続きなどはしたが、それ以来訪れていない。久し振りにあったが、げっそり痩せていて、もともと大きくなかったが、さらに縮んでいるようだった。何とか名前は覚えてくれていたが、記憶は怪しい。もしもの時のことや家の処分についてケアマネージャーに聞いてみた。今話題になっている無縁社会が身内にも起ころうとしている。甥である僕が、かろうじて最低限の手続きをしているが、正直に言って親でもなく、遠方でもあるので、しょっちゅう面倒をみるのは不可能だ。かといって、他の甥や姪も自分の親の介護や生活で一杯である。実の子でさえ面倒を見てくれるかどうかわからない社会の中で、このようなことが急増していくのだろう。我が身の将来は………。
遅ればせながら、今日NHKで放映されていた千葉大学の小林教授の日本版白熱授業を見た。サンデル教授を真似て小林教授が対話式講義をしていた。結論から言えば、好きなことを薄っぺらな根拠でベラベラ話している価値に自分が一丁前の論客になったような気になる。何の知識もつかないのではないか。そう、間違った総合的な学習の授業の大学版である。
今回は武田泰淳の「ひかりごけ」を取り上げて、極限状況で人肉を食べることの是非、アメリカの原爆投下の是非について、対話をしていたのだが、極限状況に陥ったことのない者が対話してはいけないというわけではないが、その状況を十分想像できないままに意見を述べることに何の意味があるのか。原爆投下はもっともっと複雑な条件があったにもかかわらず、そうしたことを全く勉強していない者が好き勝手な思いつきを述べている。戦争犠牲者を冒涜しているのかとも思えた。
対話は確かに思考を深める。しかし、下地になる知識がなければ、上っ面をさっとなぜるようなものだ。こんな授業をされては、正しい知識も深い思考力もつかないだろう。
サンデル教授はスマートだ。小林教授は、エーとかアノーとかが多く、歯切れの悪い講義だったことも、僕の不興の一因である。
今回は武田泰淳の「ひかりごけ」を取り上げて、極限状況で人肉を食べることの是非、アメリカの原爆投下の是非について、対話をしていたのだが、極限状況に陥ったことのない者が対話してはいけないというわけではないが、その状況を十分想像できないままに意見を述べることに何の意味があるのか。原爆投下はもっともっと複雑な条件があったにもかかわらず、そうしたことを全く勉強していない者が好き勝手な思いつきを述べている。戦争犠牲者を冒涜しているのかとも思えた。
対話は確かに思考を深める。しかし、下地になる知識がなければ、上っ面をさっとなぜるようなものだ。こんな授業をされては、正しい知識も深い思考力もつかないだろう。
サンデル教授はスマートだ。小林教授は、エーとかアノーとかが多く、歯切れの悪い講義だったことも、僕の不興の一因である。
日本ファシリーション協会の研修で、「対話(ダイアログ)」を勉強してきた。今注目されているサンデル教授が講義で用いる「対話」である。不覚にも、サンデル教授を知らなかった。勉強不足である。それはさておいて、会話は交流、議論は合意、そして対話は探究を目的にしている。対話をしてくださいというので始めたのだが、70人以上いる部屋は騒然となった。講師の堀さんはこれだけやかましくては対話は成立しないという。対話は考える時間が必要なのだ。言葉をかみしめて、思考を絞り出すのだから、ペラペラ話していては成立しない。なるほどである。5時間の研修中よく考えた。久し振りに真面目に話をしたなぁと思う。答えの出る話し合いではないのだが、それがまた心地よかった。サンデル教授は何百人いる中で対話をしているそうだが、言葉を交わすことによって思考を深めることは、出口が見えなくなった現代には必要な手段である。でも、考えを変えると、どーでもいいことをあーだこーだとこね繰り回す。いかにも非生産的な手段である。しかし、スピード化して現代だからこそ、対話が必要なのだ。
研修会後の泡の会も楽しかった。
研修会後の泡の会も楽しかった。